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2009年に開催された 横浜を乗りこなす交通マップ リヨンの洋菓子ブランド ヨコハマトリエンナーレ2017の 情報をデザインするということ デザイナー 中川憲造のヒミツ ピクトグラム制作についてインタビュー掲載 新しいチョコレートブランド 掲載されました 掲載されました 横浜グラフィックアート・ (社)日本自動車連盟 クレイジーケンバンドとコラボレーション
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2009年は日本開国150年の年として、賑やかしい。1853年のペルリ浦賀来航、1854年の横浜上陸と日米和親条約の締結にはじまり、その5年後の1859年(安政6年6月2日)横浜・函館・長崎を開港して日本は開国した。江戸末期の千石船と呼ばれた和船は大きいもので100トン程度の大きさだった。対して真っ黒な煙を吐いて横浜に来航した黒船は、当時世界最大の蒸気軍艦「サスケハナ」の2,450トン、「ミシシッピー」1,692トン、旗艦「ポーハタン」は1852年建造の最新鋭の2,415トン。この3隻の汽走軍艦に加えて3隻の帆走軍艦、3隻の武装輸送船など、いずれも500トンを越える巨大船9隻が横浜沖に展開して圧倒した。乗組員1,800人、備えた砲は180門。 マシュー・カルブレイス・ペルリ(Matthew Calbraith Perry・1794-1858)はアメリカを出港するにあたり、日本を開国させるための方策を周到に準備している。シーボルトの「日本に関する記録集」をはじめ、マルコポーロ「東方見聞録」以降出版された日本や中国に関する蔵書は750冊におよび、これを艦長室に積み上げて日本遠征の知識を充分にして来航している。捕鯨船の安全な寄港地を求めるという今回の目的の一つも、出版されたばかりのハーマン・メルヴィルの海洋小説「白鯨」から、あるいは日本近海での捕鯨を経験した船長の海流や、沿岸地形の見聞記・報告書から得、これらを士官たちにも読ませた。ペルリは蒸気船が日本へ与える衝撃の大きさを想像することができた。堂々たる艦隊編成によって、困難な交渉を成功させるという「開国のデザイン」がペルリにはあった。
ペルリ提督横浜上陸の歴史的風景を、遠征随伴画家ウィルヘルム・ハイネ(Wilhelm Heine・1827-1885)の絵から想像できる。先に上陸した士官は、青い将校服に青い制帽、サーベルと腰にピストル。水兵は青いジャケットに赤いモールの白ズボン、銃剣を手に横浜村の浜辺に整列。帆走軍艦「マセドニアン」から17発の礼砲が発射されると、ペルリは白い大型上陸船に乗り込んで上陸。深紅の上着に白ズボンの海軍鼓笛隊の演奏する「ヘイル・コロンビア Hail,Columbia」に足並みを合わせて、ペルリが堂々と、ゆっくりと交渉応接所へ進む。ヘイル・コロンビアは「アメリカ・万歳」というもの。現在のアメリカ合衆国国家「星条旗」が1931年に正式な国歌とされるまではこの「ヘイル・コロンビア」が国の歌として演奏されてきた。ニューヨークの劇場オーケストラの指揮者であったフィリップ・フィル(1734-1793)により、アメリカの初代大統領ワシントンの栄誉を讃える行進曲「プレジデント・マーチ」として1793年に作曲され、後に詩人ジョセフ・ホプキンソン(1770-1842)により「ヘイル・コロンビア」の詞がつけられた。
球場のプレイボール儀式や、オリンピックの開会式などを例に挙げるまでもなく、本題に入る前の「式典のデザイン」における視覚効果の重要性は今も昔も変わらない。華麗な制服に身を包み楽器を奏でる楽隊の音楽もその重要な構成要素の一つ。黒船にはいったい何人の軍楽隊員が準備されていたのだろうか。眼には黒い蒸気船、耳に勇壮な行進曲。見たことも聞いたこともない西洋との出会いの驚きは「ペルリ来航のデザイン」でいっそう増幅されたに違いない。幕府との応接地の選択の交渉でもペルリが構想したのは「沖合に艦隊を整列させて威容を誇れること、上陸地が艦船の砲弾の届く距離であること、汽車の模型などの贈り物を展観できる広さのあること」だった。幕府の提案した横浜村は、文字通りヨコに広がるハマを持つことでペルリの意に沿い「開国の歴史」の起点となることができた。 タイポグラフィックス・ティー 第254号 再録
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